攻城日誌

2009年10月29日 (木)

常陸国笠間城

考えてみたら、蔚山倭城以降城巡りをしていない。桜町陣屋は偶然通りかかったこともあり、記録は取っていないし。

で、久しぶりの城巡りは笠間城にしたのだが、麓までは難なく着いたものの入口が分からない。ようやく藩主下屋敷の駐車場まで辿り着いたものの、今度は藩主下屋敷から千人溜までの道が土砂崩れで封鎖されていたために別ルートを辿った結果、他の郭を省略していきなり本丸直下に出てしまうという事態に。まぁ仕方ないことだが。
ここまでは公園として整備されているが、行き過ぎた整備ではなくいい雰囲気を醸し出している。

天守郭は本丸と竪掘で遮断され完全に独立しており、石垣が多用されている。元々この山には岩場が多数あり、天守郭石垣の石材はここから切り出したのだろう。
天守郭といっても大した面積はなく、中世城郭時代の物見台を近世城郭に改修した際に天守郭にしたんだろうな。

No.395(茨城県NO.24) 笠間城
場所 茨城県 笠間市 笠間
日時 ‎2009‎年‎9‎月27‎日 ‏‎12:56:36(天守郭) ‏‎‏‎12:35:32(八幡台櫓跡) ‏‎‏‎13:06:34(石倉)

笠間城天守郭、八幡台櫓跡、石倉
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2009年8月 9日 (日)

蔚山倭城

朝から腹の調子が今一だが、大事に至ることはないだろうと思いきや、蔚山駅を出て 500m程歩いたところでヤバイことに・・・・・
もう少しでバスターミナルがあるのでそこで何とか、と顔面蒼白(だったと思う)状態でバスターミナルのトイレに駆け込んだが、今度は紙がない。あぁぁぁぁと一瞬焦ったが、そういえば今朝なんとなくバッグにティッシュペーパー詰め込んだことを思い出して事なきを得たが。
用を足してから気づいたのだが、出入口の横にトイレットペーパーがぶら下がっていて、これから適量ちぎって持って入るらしい。実際、後で入った蔚山駅も同じシステム(?)だった。

気を取り直して蔚山倭城へ。
蔚山倭城の中心部は現在鶴城公園として整備されいるが、遺構の保存状態は良くない。所々に[残骸]が残っている程度。主郭にも大規模な枡型虎口があるが、部分的に石垣が残っているにすぎない。

とここまできて急速に体力を消耗。立っているのもしんどい。熱まで出てきた。こりゃマジでヤバイ。公園内にはまだ遺構があるのだろうけど、とても見て回れる状態じゃない。ましてこれから西生浦倭城に行くなんて自殺行為になる。仕方がない、今日も撤退だ。

で、公園を出てタクシーをつかまえ

蔚山駅まで

と言っても通じない。蔚山駅を知らないようだ。
機張駅の件もそうだが、日本よりバスが発達しているためか、タクシーの運ちゃんですら鉄道の駅を知らない、というか知らなくても仕事ができてしまうのか。

どうにか蔚山駅までたどり着き、列車を待つこと約 1時間。10分ほど前にゲートが開いてホームに向かったら、目の前に小山がある。こちらの小山の方が港を制することができるし、完全に独立した小山なので現在の蔚山倭城のように隣の山から俯瞰されることもない。当時の海岸線がどこだったのか分からないし、水の手の問題もあったのかもしれないけど。

釜山に戻る途中、車窓から空を眺めているとホントにいい天気だ。風がそこそこあるらしく雲が空を泳いでいる。目線を変えれば萌黄色の水田に風が舞い降り稲と戯れている。おそらく 400年前の夏も似たような景色だったのだろう。
李氏朝鮮の支配下で民衆が本当に幸福だったかどうかはさておき、この風景を蹂躙した侵略者に心底憤りを感じる。そして現在の歴史を直視しない輩に対しても。

追記:公共交通機関ではどうしても時間の制約から逃れることができない。その点単車の機動力は非常に高いものがあるが、今回のように右側通行の国で体調不良が重なるとリスクが高く考えものだ(韓国までフェリーするのも大変だし)。

No.394(大韓民国NO.8) 蔚山倭城
場所 蔚山広域市 中区 鶴城洞
日時 ‎2009‎年‎8‎月‎5‎日 ‏‎11:42:26(主郭) ‏‎‏‎11:32:20(主郭枡型虎口)

蔚山倭城主郭、主郭枡型虎口
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子城台倭城

子城台倭城は釜山倭城と国鉄を挟んだ反対側にあり、距離も近い。が、炎天下の中さすがにバテ始めている。それでも釜山は風が吹いてくれるからまだ助かるが。機張駅の一件でドタバタして昼飯食い損ねたけど。

ここも市街地の中の公園と化しているが、主郭とⅡ郭(というか巨大な馬出?)の石垣が良く残っている。

そういえば、釜山倭城も子城台倭城も北側を防御正面と想定しているようだ。やはり、ここでも港(南側)を確保することが最優先課題だったんだろうな。

No.393(大韓民国NO.7) 子城台倭城
場所 釜山広域市 東区 凡一洞
日時 ‎2009‎年‎8‎月‎4‎日 ‏‎15:31:10(主郭) ‏‎15:48:04(主郭石垣)

子城台倭城主郭、主郭石垣
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釜山倭城

平面図を観ると団地の中にある公園。ところが、比高差が 100m以上あり、近道は急な階段の連続になるので下手な山城より疲れる。
心臓破りの階段の連続を克服してようやく主郭下段に辿り着くと、そこはおぢさん・おばさんが木陰でくつろいでいるどこにでもある平和な光景になる。

主郭の石垣は西側はモルタル充填(遊戯施設を設置した際の安全対策か?)、北側と南側は改変されているが、東側は多少いじられているものの概ね原形を留めているかと思う。主郭下段とⅡ郭の石垣は西側が良く残されている。
街中でこれだけ遺構が残されているのは、急峻な小山に築城したのが幸い(?)しているような。

ここが壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の際に豊臣勢の拠点になったことを考えると、今の平和な光景が何よりも大切に思える。

No.392(大韓民国NO.6) 釜山倭城
場所 釜山広域市 東区 凡一洞・佐川洞
日時 ‎2009‎年‎8‎月‎4‎日 ‏‎14:29:12(主郭) ‏‎13:59:02(主郭石垣)

釜山倭城主郭、主郭石垣
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林浪浦倭城

機張倭城攻略後、体調が悪化して昨日(8月3日)は身動きできなくなった。トラブルは楽しむもの、がポリシーだが、体調が悪化して身動きできなくなるのにはさすがに閉口した。
今日(8月4日)は体力も元に戻り、林浪浦倭城攻略へ。

釜田駅で佐川(Jwacheon)と言ったはずが何故か堤川(Jecheon)までのチケットが出てきて

おかしい、変更してくれ

とすったもんだが始まり、無事変更することができたが今日は朝からどうなることやら。
ちなみに、佐川までは 2,500KRW、堤川までは 20,400KRW。

何とか電車には間に合い、無事林浪浦倭城まで着いたのだが、林浪浦倭城主郭への枡型虎口は以前の山火事の際に消火活動のため破壊されてそのままになっている。領地拡張の妄想に取り付かれた愚昧な権力者が勝手に人ん家に要塞作って殺戮を行ったのだからこうした事態はしかたがない。韓国側の手により整備された倭城とは異なり何やら哀愁が漂うが、これは日本人の勝手な印象に過ぎないのかもしれない。

ところで、林浪浦倭城は他の海岸部の倭城と異なり港に臨んでいない。釜山から西生浦倭城に至る街道確保が目的だったのかもしれないが、麓の遺構がはっきりしないので定かではないが。

さて、次は釜山倭城へ、と佐川駅まで戻り駅員さんに

次の釜田駅行きの列車は何時だ

と聞いたら

15時・・・・・

今 12時前なので、これはさすがにまずい。2駅先の機張駅には12:29発の釜田駅行き列車が止まると記憶しているのでタクシーで機張駅まで行こうとするが、機張の街に入って暫くの後、運ちゃんが

機張駅が分からないからここで降りて別のタクシーを使ってくれ

とのたまう。なんなんだと思いつつもタクシーを降りたが、現在位置が全くわからん。列車の発車時刻まであと 10分程度しかないのでしかたなく別のタクシーをつかまえて機張駅に向かったら 2~300mしかない。ホント近くまで来ていたのか、でも列車の時間迫っているし未知の街なのでしかたないか。はよ釜山倭城に行こう。

No.391(大韓民国NO.5) 林浪浦倭城
場所 釜山広域市 機張郡 長安邑 林浪里
日時 2009‎年‎8‎月‎4‎日 ‏‎10:54:28(主郭) ‏‎‏‎10:50:08(天守台) 11:05:52(主郭からの遠望)

林浪浦倭城主郭、天守台、主郭からの遠望
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機張倭城

壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の際に朝鮮侵略の橋頭保として豊臣勢が釜山を中心に蔚山から順天まで数多の倭城を築いたが、この機張倭城は西生浦倭城と釜山を繋ぐために林浪浦倭城と共に築城されたものかと思う。そのため、港を臨む構造となっているのは他の海岸部の倭城と共通している。

城址にいると日本の織豊系城郭にいるような錯覚をするほど[和式]である。
保存状態もかなり良いようだが、夏の真っ盛りに訪れたこともあり草が生え茂り観察には今一の状態。やはりしっかり観察しようとするなら冬場に限る。

しかし・・・・・

機張倭城に限らず、倭城は構築時期が明確なうえ、使用期間が極めて短く、したがて後世の改変が無いことから城郭形態の編年を研究するうえで極めて重要であることは確かだが、現地に立ってみるとよくもまぁ異国の地にこんなもん造ったものかと呆れてしまう。日本の城郭史研究のうえで重要な遺跡かもしれないが、韓国側からすれば豊臣秀吉による侵略の爪痕であり、近年日本人観光客を誘致する目的もあって整備が進んでいる倭城もあるが、釈然としないものがあるだろう。

城址でたまたま出会ったおいちゃんが韓国語で何か話しかけてきたが、[日本人だ]と言ったら複雑な顔してたっけ(スミマセン、韓国語まだ解りません)。
やはり、倭城は歴史を直視せずに興味本位で訪れる場所ではない。

次は林浪浦倭城に行こうと機張駅に戻ったが、何やら体調がおかしい。考えてみれば、今回の行程でこれまでろくに固形物を摂っていない。
単車でのツーリングは何かと時間に追われるが、飯を取る自由度は高い。しかし、電車だ飛行機だ船だバスだといろいろなものを乗り継いでいると一回食いっぱぐれるとなかなか食にあり付けなくなる。昨日は最初の固形物摂ったの16時過ぎていたしなぁ。
まだ体力のあるうちに釜山まで戻り、しっかりしたもの食べて今日はゆっくりしよう。

No.390(大韓民国NO.4) 機張倭城
場所 釜山広域市 機張郡 機張邑 竹城里
日時 ‎2009‎年‎8‎月‎2‎日 ‏‎11:22:08(主郭石垣) ‏‎11:17:24(主郭) 10:52:30(主郭からの遠望)

機張倭城主郭石垣、主郭、主郭からの遠望
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2009年6月14日 (日)

下野国足利氏館

建久7(1196)年に足利義兼が持仏堂として堀内御堂を建立したことから鑁阿寺の歴史が始まるが、この時期には屋敷の一部に持仏堂を建立したのだから足利氏の政庁としての館の機能が損なわれることはなかったであろう。しかし、文暦元(1234)年に足利義氏が伽藍を整備してからは館の敷地は足利氏の氏寺としての鑁阿寺になってしまう。
はたして、義氏は政庁としての館を何処に構えたのであろうか。義氏は三河守護だし、執権北条氏とも血縁関係(母親が北条時政の娘)にある有力御家人であったことを考えればそれなりの規模の館が必要だったはずだが、あるいは鎌倉にいることが多かったので以前のような規模の館を足利に構えることが不要になったのだろうか。

などと考えながら散策していたら原爆タイプ高所ドアがあった。

No.389(栃木県NO.31) 足利氏館
場所 栃木県 足利市 家富町  
日時 ‎2009‎年‎6‎月‎7‎日 ‏‎13:36:10(足利氏館堀) ‏‎‏‎13:43:24(土塁)

足利氏館堀と土塁
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2009年6月12日 (金)

大和国多聞山城

石垣の塁線上に多聞櫓を築き、近世城郭の先駆となった城も今では石碑に名を留めるのみ。
かつては聖武天皇陵から若草中学校を経て善勝寺山までを城域とする壮大な城郭であったのだが。

No.388(奈良県NO.4) 多聞山城
場所 奈良県 奈良市 法蓮町
日時 ‎2009‎年‎5‎月‎10‎日 ‏‎7:58:44

多聞山城石碑
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大和国信貴山城

山頂(主郭)には空鉢堂が建ち、周囲も朝護孫子寺関連の施設が立ち並び中世城郭の主郭のイメージはもはやない。
縄張も中世的であり、従来の城を改修した信貴山城と当初から松永久秀により築造された多聞山城とでは松永久秀関連とはいえ自ずから趣が異なるのだろう。

No.387(奈良県NO.3) 信貴山城
場所 奈良県 平群町 信貴山
日時 ‎2009‎年‎5‎月‎9‎日 ‏‎16:01:34

信貴山城主郭付近
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河内国飯盛山城

四条畷の戦いの際に縣下野守率いる白旗一揆が布陣したのは飯盛山山頂ではなく麓の高地とするのが妥当なところかと思う。山頂から下山していたら縣勢が麓に辿り着く前に楠木正行が率いる部隊は高師直の本陣に突入していたことだろう。

ところで、畷とは縄のように細い道、具体的には田んぼの畦道のようなもので、場合によっては周囲には泥田や深田がある。太平記に記述されているように

田野ひらけ平にして馬の懸引自在なれば・・・

とは言い切れない。
戦い方を間違えれば、燈明寺畷では新田義貞、沖田畷では龍造寺隆信という一軍の大将が戦死するほど危険な場所である(実際、四条畷では楠木正行が戦死しているが)。
また、百年戦争のクレシーの戦いやアジャンクールの戦いでフランスの重装騎兵が大打撃を被ったように、弓は騎馬突撃に対して極めて有効な武器となる。当時の武士はヨーロッパの騎士と異なり弓で武装した騎馬弓兵であることから、クレシーやアジャンクールと単純比較はできないものの、これまた太平記に記述されているように、縣勢が

只今敵のましぐらに懸入んとする道の末を一文字に遮て、東西に颯と立渡り、徒立に成てぞ待懸たる。

のであれば、弓の射角によっては十字砲火の効果もあり、しかも楠木勢は畷で機動が制約されていることから、縣勢の迎撃で相応の打撃を被った可能性が高い。
ただ、急遽下山した縣勢が時間的人的に余裕がなく、十分な縦深陣地を構築することができなかったことから突破はされたものの、楠木勢はこの迎撃で打撃を被り、続く武田勢との戦闘で残り少ない戦力を消耗した結果、高師直の本陣に突入するだけの余力がなくなったと解釈してもいいのではないだろうか。

以上、太平記という[小説]を基にした解釈ではあるが、縣下野守が楠木正行に一方的に蹂躙されたとは思えない。

No.386(大阪府NO.7) 飯盛山城
場所 大阪府 大東市 北条
日時 ‎2009‎年‎5‎月‎9‎日 ‏‎14:12:48(主郭) ‏‎14:03:42(主郭からの遠望)

飯盛山城主郭と主郭からの遠望
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摂津国芥川山城

摂津峡の急峻さに比べると南からのルートはなだらかで、比高差もそれほどでもない(110m程度)ので難なく東曲輪群に辿り着ける。その割には松井田城のようにルートを遮断する意図が見えない。松井田城は侵入路となる北側のなだらかな尾根を城域に取り込み、執拗にルートを遮断している。
小田原北条氏により戦国末期に改修された松井田城と比較すること自体が無理かもしれないが、築城技術の差が見えてその意味で興味深い。

No.385(大阪府NO.6) 芥川山城
場所 大阪府 高槻市 原
日時 ‎‎2009‎年‎5‎月‎9‎日 ‏‎10:53:58(竪土塁) ‏‎‏‎11:08:14(石垣) ‏‎11:26:48(主郭)

芥川山城竪土塁、石垣、主郭
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丹波国黒井城

4年前の夏に福知山から奈良に向かう途中、本州一(この時は日本一だったような)標高の低い中央分水界(95.45m)である兵庫県丹波市氷上町の水分れ公園まで行ったのだが、この時は城的には篠山城しが眼中になく、見事に黒井城をスルーした。そして今回、正式(?)に訪れることになったのだが、時間の制約もあり主要箇所しか回れななかった。
黒井城は城山山頂(主郭)を中心にした主要個所をはじめ、全山の要所要所に郭を設け城山全体を要塞化している。主郭の界隈は石垣が構築されているが、これ、城下から見ることができる南面を中心に築かれており、明らかに[支配のための装置]になっている。おそらく明智光秀が黒井城を接収したのちの遺構であろう。
主郭からの眺望は見事で、お山の大将そのものの気分になれる。

No.384(兵庫県NO.5) 黒井城
場所 兵庫県 丹波市 春日町 黒井
日時 ‎2009‎年‎5‎月‎8‎日 ‏‎15:49:28(主郭) ‏‎16:04:16(主郭虎口)

黒井城主郭と主郭虎口
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安芸国小倉山城

麓に着いて周囲を見渡すと、駐車場はデカいしトイレも立派でこれだけだと変に観光地化されているのでは、と勘繰ってしまう。実際には、よく整備されているが行き過ぎたものではなく、やはりこうした整備には非常に好感が持てる。到着時の疑念も消え去った。
この城、妙な言い方かもしれないが、かわいらしい城。小規模でコンパクトにまとまっており、守りやすそうだ。眺望もよい。
雲行きが怪しくなったので早々に退散してしまったが、もう少し周囲を見て回りたかった。
近くには日野山城があるが、今回は時間がなくスルーしたので、次回日野山城に行くついでに再訪しようかな。

No.383(広島県NO.5) 小倉山城
場所 広島県 北広島町 新庄
日時 ‎2009‎年‎5‎月‎7‎日 ‏‎14:45:14(主郭) ‏‎14:44:36(建物跡)

小倉山城主郭と建物跡
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安芸国吉川元春館

規模的には国人領主の館だが、正面の石垣は圧巻。庭園施設が充実しているのは政庁というよりは吉川元春の隠居館としての機能を優先させたからだろう。
これだけの施設がほんの数年で放棄されるとは、なんとももったいない話だ。

No.382(広島県NO.4) 吉川元春館
場所 広島県 北広島町 海応寺
日時 ‎2009‎年‎5‎月‎7‎日 ‏‎13:21:44(石垣) ‏‎13:24:06(空堀)

吉川元春館石垣と空堀
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石見国浜田城

浜田城は類型上では梯郭式平山城となっているが、中心部は本丸に規模の大きい外枡形を連続させた単郭の形式にも見受けられる。浜田城の二の丸、三の丸、出丸は狭く小規模な建物しか建てられないので、通常の近世城郭における二の丸以下とは異なる機能とならざるを得ない。したがって、中心部は本丸としての機能だけであり、本来の二の丸、三の丸は別の場所とした方がすっきりするのであるが・・・

No.381(島根県NO.3) 浜田城
場所 島根県 浜田市 殿町
日時 2009‎年‎5‎月‎7‎日 ‏‎11:00:58(本丸) ‏‎10:53:50(二の門跡)

浜田城本丸と二の門跡
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2009年5月24日 (日)

安芸国吉田郡山城

吉田郡山城、実は 3年前に広島から米子に向かう際に立ち寄ろうとしたのだが、この時は前日に飲みすぎて出発が遅れてしまったため、時間不足で割愛した経緯がある。
今回は比較的時間もあるので、主要箇所を全て廻ることができた。

この城は国人領主であれば十分すぎる規模だろうけど、中国地方の覇者となった毛利氏にとっては手狭だし立地条件を考えれば広島城を新たに普請したことが十分理解できるな。

No.380(広島県NO.3) 吉田郡山城
場所 広島県 安芸高田市 吉田町 吉田
日時 2009‎年‎5‎月‎6‎日 ‏‎13:19:16(旧本城) ‏‎‏‎14:28:00(主郭櫓台)

吉田郡山城旧本城と主郭櫓台
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山城国天王山城

雨が降ったりやんだりしたせいか、伊吹PAに着いた時には意外と時間が経っていた。
当初は5月5日は芥川山城を攻略し天王山城は5月6日に攻略する予定であったが、芥川山城は 3年前に登山道が見つからず断念した経緯もあり、城自体も規模が大きいのでやはり十分な時間が欲しい。であれは、時間も押していることだし、芥川山城は明日にして今日は天王山城にしようと計画を変更した(芥川山城は結局 5月 9日となってしまったが)。

天王山城は戦国期の他の山城と比較すると作りが新しいように思える。山崎は京の入口を守備するための重要な地点でもあることから、天王山には古くより何らかの施設があったのだろうが、山崎の合戦後大阪築城まで羽柴秀吉が居城としたことから、現在に残る遺構はこの時期に改修されたものではないか。

No.379(京都府NO.5) 天王山城
場所 京都府 大山崎町 大山崎
日時 2009‎年‎5‎月‎5‎日 ‏‎15:11:52(主郭) ‏‎15:20:46(井戸跡)

天王山城主郭と井戸跡
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信濃国羽場城

主郭部の保存状態は良いが、外郭の土塁は削り取られてほとんど残っていない。
城址も寺社の敷地になっていれば比較的良い状態が保たれる例が多いが、行政が城址に公的施設を建ててものの見事に破壊する例もまた多い。
文化財を保護する立場にある者が率先して破壊するのはいかがなものか。もっとも、当事者には破壊するという意識すらないのかもしれないが(松島城が良い例)。

No.378(長野県NO.40) 羽場城
場所 長野県 辰野町 伊那富
日時 ‎2009‎年‎5‎月‎3‎日 ‏‎14:56:00(主郭土塁) ‏‎14:50:58(空堀)

羽場城主郭土塁と空堀
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信濃国箕輪城

おそらく単郭の城郭。館と言った方が適切かもしれない。郭内部は墓地になっているが、南側と西側には空堀が明瞭に残っている。
北側の道路も元は堀だったのであろう。

No.377(長野県NO.39) 箕輪城
場所 長野県 箕輪町 中箕輪
日時 2009‎年‎5‎月‎3‎日 ‏‎13:37:52

箕輪城空堀
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信濃国上ノ平城

事前に見た資料からは比較的小規模な城であるとの印象であったが、実際にはかなりの規模がある。
南側は急崖となっているし、後背以外は十分な比高差があるので防御性は高いと思われるが、後背の遮断が甘いような気がするが。

No.376(長野県NO.38) 上ノ平城
場所 長野県 箕輪町 東箕輪
日時 2009‎年‎5‎月‎3‎日 ‏‎12:31:52(主郭) ‏‎‏‎12:34:56(空堀)

上ノ平城主郭と空堀
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2009年4月12日 (日)

信濃国桜城

ここには[治承・寿永の乱]時代の武将である金刺盛澄の居城があったというが、単純な縄張であるが戦国期の城ではないか?立地も中世初頭とは異なるような。
それにしても・・・・・
このような整備(?)よりは下草生え放題の方が古城の雰囲気があっていいと思うのだが。
ただし、主郭からの諏訪湖の眺望は素晴らしい。

No.375(長野県NO.37) 桜城
場所 長野県 下諏訪町 横町
日時 2009‎年‎4‎月‎12‎日 ‏‎12:18:32(主郭) ‏‎12:21:54(主郭からの遠望)

桜城主郭と主郭からの遠望
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2008年12月30日 (火)

甲斐国勝沼氏館

続いて勝沼氏館へ。

ここは勝山城と正反対にきれいに整備されている。行き過ぎた復元もなく、簡素に整備してあり好感が持てる。
城址の整備はこの程度の復元に止めて、必要ならば模型で往時を偲ぶのが良い。壬生城のような悪しき[整備]は訪問者におかしな先入観を与えかねないのでやめるべきだとつくづく思う。

No.374(山梨県NO.23) 勝沼氏館
場所 山梨県 甲州市 勝沼町 勝沼
日時 2008‎年‎12‎月‎30‎日 ‏‎13:08:10(堀) 13:39:30(主郭)

勝沼氏館堀と主郭
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甲斐国勝山城

11月は仕事に忙殺され遠出することができず、12月入ったら入ったで今年もバッテリーに悩まされ、バッテリーがあがりエンジンが始動しない日が2回もあった。温暖化のおかげ(?)で春先のような気温にも関わらず、である。
それでもやっと年の暮れではあるが、単車を走らせることができた。
暖かいといっても日が短く本格的な長距離は無理なので、比較的近い山梨県に向かうことにしよう。

まずは勝山城。山梨県にはここの他に都留市にも勝山城があり、そちらは既に訪ねている。
中央道の甲府南ICからすぐ近くなので東京からのアクセスは非常に良いのだが、いかんせん城地は一面果樹園になっていて遺構がわからない。郭と思しき削平地があるが、当初からのものか果樹園造成の結果か全くわからない始末。石碑が立っていなければ表面観察だけでここを城と認めるのは無理かと思う。
ちょっとがっかりだっな。

No.373(山梨県NO.22) 勝山城
場所 山梨県 甲府市 上曽根町
日時 2008‎年‎12‎月‎30‎日‏‎ 12:20:28

勝山城郭内
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2008年10月13日 (月)

信濃国前山城

ホントは8時頃には家を出るはずだったのだが、早寝したものの昼まで寝ていたせいかなかなか寝付くことができず、結局起きたのが8時30分。飯食って支度して単車に給油して10時頃に出発したのだが、案の定中央道が大渋滞(35km)!途中食事をしたにしても、野辺山界隈を通過したのが13時。これでは海ノ口城は無理だな。結局、この日は前山城だけになったのだが、やはり早く起きるに越したことはない。

ようやく前山城の麓に辿り着き登り始めたのだが、途中のりんご畑界隈には虎口のような場所もあったものの、遺構かどうか判らない。表面観察だけだが、りんご畑界隈は廃城後に開墾されてしまっている可能性がかなり高いようだ。
そうはいっても、小規模な城だが遺構は良く残っている。

No.372(長野県NO.36) 前山城
場所 長野県 佐久市 前山
日時 2008‎年‎10‎月‎12‎日 ‏‎14:10:32

前山城主郭
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2008年10月 4日 (土)

下野国壬生城

今日の城攻めは諏訪方面にするか佐久方面にするか散々悩んだ挙句、そういえば毎年恒例の金精峠にまだ行っていないことを思い出し、結局沼田から金精峠を経て日光へ抜けることにした。帰りに以前時間切で訪れることができなかった壬生城に寄ろう。

金精峠界隈は既に紅葉が始まっていて、もう少し時間がたてばさぞかし美しい眺めになるんだろうな。

しかし、壬生城は何なんだ、これは。以前の古河城諏訪曲輪もそうだが、壬生城は整備の名の下により犯罪的に破壊されている。
話は逸れるが、松江城下町遺跡で発掘された家老屋敷跡に松江市は[歴史資料館]を遺跡を破壊して建設しようとしているが、このような事例を見ていると行政と癒着した土建が文化財や遺跡を食い物にしている構図が見て取れる。
そういえば、壬生城にも[歴史民俗資料館]があったな(笑)。

No.371(栃木県NO.30) 壬生城
場所 栃木県 壬生町 本丸1丁目
日時 2008‎年‎10‎月‎4‎日 ‏‎15:14:14([水堀]) 15:35:46(土塁)

壬生城[水堀]と土塁
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現地の掲示板にはこのような過去の壬生城の写真が載せられている。
現場の担当者の精一杯の抗議だろうか。
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2008年9月28日 (日)

信濃国有賀城

お次が有賀城。街道沿いにでかい看板があるので間違いようがない。
街道側に横堀を廻らすあたりは干沢城より新しい造りになっているのだが、この横堀、部分的でしかなく中途半端な感じがする。それでも主郭と尾根を遮断する掘切の規模は大きく見応えがある。

No.370(長野県NO.35) 有賀城
場所 長野県 諏訪市 豊田
日時 2008‎年‎9‎月‎23‎日 ‏‎15:34:18(有賀城主郭) 15:52:32(堀切)

有賀城主郭と堀切
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信濃国干沢城

城攻めをするなら、やはり山城が良い。渋滞も嫌いなので矛先は結局長野県方面になるのだが、久々の晴天でもあったので中央道は混んでいた。とはいっても、休日夕方の東名の殺人的な渋滞に比べれば楽なもんだが。。。。。
諏訪湖北岸の上原城と桑原城は既に訪れているので、今回は南岸の干沢城と有賀城へ。

干沢城は諏訪大社上社前宮の裏手にあり、やや単調な縄張であるが規模は大きい。さすがに諏訪氏が本拠としただけのことはある。
安国寺方面から登っていったためいきなり主郭に至ってしまったが、ルートが分かっていれば諏訪大社方面からのアプローチの方が良いかもしれない。

No.369(長野県NO.34) 干沢城
場所 長野県 茅野市 宮川
日時 2008‎年‎9‎月‎23‎日 ‏‎13:57:34(干沢城主郭) ‏‎14:05:40(石塚)

干沢城主郭と石塚
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2008年9月15日 (月)

伊豆国長浜城

最近は主に長野方面もしくは栃木方面に出かけていたので、今回は趣向を変えて伊豆に行くことにした。長野や栃木を選んでいたのは比較的渋滞が少ないことが理由で、今回は案の定東名で渋滞にぶつかり、高速を降りてからも国道・県道ともに渋滞。道の選択肢があまりないから仕方がないのだが。。。。。

長浜城は同じ北条水軍の城でも下田城とは趣を異にするが、この差は如何なる所以か?

No.368(静岡県NO.29) 長浜城
場所 静岡県 沼津市 内浦重須
日時 2008‎年‎9‎月‎14‎日 ‏‎13:07:32(長浜城主郭) 13:15:38(出郭)

長浜城主郭と出郭
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信濃国平賀城

実は、以前平賀城の麓まで来たものの、進入路が見つからず断念したことがある。今回は地形図まで持ち出して正確な位置を調べておいたので難なく辿り着くことができた。

至る所に石積が残っているし、東側の尾根筋を防御する出郭も見ごたえがある。

No.367(長野県NO.33) 平賀城
場所 長野県 佐久市 平賀
日時 2008‎年‎9‎月‎11‎日 ‏‎13:58:04(平賀城石積) 14:14:40(主郭)

平賀城石積と主郭
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2008年8月16日 (土)

ソウル城郭

元々、ソウルは城壁で囲まれていた。この城壁も水原華城と同様に日本による占領と朝鮮戦争で大部分が破壊されてしまうが、1975年から復元工事が行われ当時の姿を取り戻している。

今回は駱山公園から東大門にかけて散策してみたが、破壊と復元の痕跡が明確に残されている。

No.366(大韓民国NO.3) ソウル城郭
場所 ソウル特別市 鍾路区 東崇洞
日時 2008‎年‎8‎月‎13‎日 ‏‎13:04:14 ‏‎13:22:06

ソウル城郭城壁
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水原華城

この城は李氏朝鮮の第22代国王である正祖により1796年9月に完成したが、日本による占領と朝鮮戦争で破壊されてしまう。その後、1975年から修復・復元工事が行われ、1997年にはユネスコの文化遺産に登録された。

一見する限り、城壁の大部分は復元したもののようだ。ただし、水原華城の復元作業は築城記録である[華城城役儀軌]に基づいているので、どこかの国で一時期流行したでたらめな天守閣[再建]とは正確さに相当な開きがある。
それにしても、蒼竜門から東将台にかけての一帯は整備が行き届いており美しく、華城の名に恥じない。

ここでも[日本による破壊]というキーワードが出てくる。日本人として近隣諸国で何をしてきたか真剣に考えなきゃならんのではないか?

No.365(大韓民国NO.2) 水原華城
場所 京畿道 水原市 八達区及び長安区一帯
日時 2008‎年‎8‎月‎12‎日 ‏‎11:59:34(水原華城城壁) 12:26:46(水原華城雉城) 14:26:24(水原華城東将台)

水原華城城壁、雉城、東将台
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幸州山城

ここは壬辰倭乱(文禄の役)における激戦地のひとつ。
碧蹄館の戦いの後、1593年2月に権慄率いる民間人を含む2,300の守備隊が、宇喜多秀家を総大将とする30,000の豊臣勢を撃退している。

この幸州山城攻防戦では、篭城する守備隊に対して攻撃側は約13倍の戦力を有している。通常、これだけの戦力差があれば落城は時間の問題であり、将士や義民の士気が高く権慄の戦術が巧みだったにせよ、よほどの椿事がなければ攻撃側が敗退することはない。しかも碧蹄館の戦の勝利により勢いがついているのは豊臣勢の側である。しかし、10,000人ともいわれる損害を出して豊臣勢は敗退する。

遺構は土城と大捷記念館付近の土塁が残るだけだが、山頂から眺める漢江の流れは雄大そのものである。

それにしても愚かな侵略戦争をしたものだ。

No.364(大韓民国NO.1) 幸州山城
場所 京畿道 高陽市 徳陽区
日時 2008‎年‎8‎月‎11‎日 ‏‎‏‎‏‎13:05:30(幸州山城土城) ‏‎13:19:42(幸州山城から眺める漢江) 13:52:44(幸州山城土塁)

幸州山城土城、漢江、土塁
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2008年3月 9日 (日)

下野国二条城

次は二条城へ。
赤壁城からは西方城の反対側にある。比高はさほどないがとにかく藪がすごい。しかし、遺構は比較的良好に残っている。特に主郭を取り巻く土塁には内側と外側両面に石積が施されている。

No.363(栃木県NO.29) 二条城
場所 栃木県 西方町 本城
日時 2008‎年‎3‎月‎9‎日 ‏‎13:49:32(二条城主郭) ‏‎13:37:38(二条城土塁)

二条城主郭と土塁
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下野国赤壁城

今日はあまりにも天気が良いので気分転換ついでに栃木県まで走った。天気が良いといっても高速走行時の体感温度はかなり低くなるので、冬装備で出かけたのだが、確かに高速を走っている時は調子が良かったものの、単車を降りて山道を歩き出したらこの装備が仇になった。

暑い。汗が吹き出てくる。

この時期異様な汗をかきながらまずは赤壁城を攻略。赤壁城は西方城を監視するために築城されたらしく、主郭からは西方城が良く見える。

No.362(栃木県NO.28) 赤壁城
場所 栃木県 西方町 真名子
日時 2008‎年‎3‎月‎9‎日 ‏‎12:39:56(赤壁城) 12:42:52(西方城遠望)

赤壁城と西方城遠望
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2008年2月24日 (日)

下総国関宿城

次に関宿城を訪ねたのだが、ここも遺構は堤防の下。関宿も利根川水運の要衝ではあるが。意図した訳ではないが、同じ日に河川改修工事で徹底的に破壊された城をふたつ巡る事になった。

まだ時間もあるし群馬方面に足を伸ばそうかと関宿城を離れたあたりから風が猛烈に吹きだし、突風に煽られてまともに走れない。こりゃへたすると事故るかもしれない思い、ささっと帰ってきてしまった。

No.361(千葉県NO.23) 関宿城
場所 千葉県 野田市 関宿町
日時 2008年2月23日 ‏‎13:20:34

関宿城遺構
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下総国古河城

年明けからPCをリニューアルしたり雪が降ったり腰を痛めたりで単車で出かけるには程遠い状態だったが、やっと繰り出すことができる状況に至った。単車は案の定バッテリーがへたっていたので、22日に充電。準備万端で古河城へ。

古河は水運の要衝であるし、古河城は徳川将軍の日光東照宮参拝の際に宿にした城で、南北約1,800m、東西約550mという関東でも最大級の規模を誇っていたのだが・・・

完全に破壊されている。本丸の址には標識がポツンと立っているだけ。残された貴重な遺構のひとつである諏訪曲輪の堀も小奇麗に[整備]されている。いるんだよな、行政には破壊と整備の区別ができない輩が。どうせ公共事業で税金を使うのであれば、元に戻して古城の雰囲気を醸し出したほうがよいのだが。

No.360(茨城県NO.23) 古河城
場所 茨城県 古河市 長谷
日時 2008年2月23日 12:01:46(本丸跡) 12:17:12(諏訪曲輪堀)

古河城本丸跡と諏訪曲輪堀
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2007年12月28日 (金)

下野国鷲城

この日最後の目的地である鷲城に向かう。この城は国道4号線に案内板があったので何ら問題なく辿り着くことができた。
思川方面は比較的良好に遺構が残されているが、地続きの東側は御多分に漏れず市街地化で消滅している。
東国の城は石垣のない土の城が基本なので破壊も容易であるため、遺構が残りにくい面もあるが、それでもこの国は歴史的遺産を大切にしないとつくづく思う。

No.359(栃木県NO.27) 鷲城
場所 栃木県 小山市 外城
日時 2007年12月24日 14:20:40

鷲城 内城と外城間の堀
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下野国榎本城

続いて榎本城に向かったものの、位置がわからない。たぶんこのあたりだろうと20分程うろつくが、ただ刈り取られた水田が広がるのみでそれらしきものはない。おかしいと思いつつ、それでもしつこく走っていたら遠目に石碑のようなものが見えた。この石碑(実は榎本城の碑)らしきものを目指してしばらく走ったらようやく榎本城に辿り着くことができた。
以前は広大な城域だったらしいが、今は水田に囲まれて若干の遺構が残されているだけ。

No.358(栃木県NO.26) 榎本城
場所 栃木県 大平町 真弓
日時 2007年12月24日 13:02:20

榎本城堀跡
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下野国藤岡城

最近、天正年間における北条と佐竹・宇都宮の勢力圏の境目を重点的に見て回っているのだが、今回もその一環で3城を散策してきた。

まずは藤岡城であるが、堀跡とおぼしき水田と、水田面から比高2m程度の切岸しか残されていない。特に藤岡駅界隈は市街地化で完全に破壊され、若干の起伏から当時を偲ぶしかない状態。
ただ、平将門が藤岡城を築いたという伝承が残されており、ここで将門伝説に触れるとは思ってもいなかった。

No.357(栃木県NO.25) 藤岡城
場所 栃木県 藤岡町 藤岡
日時 2007年12月24日 11:56:30

藤岡城切岸
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2007年11月28日 (水)

下野国中里城

続いては下県城の近くにある中里城。
隅に櫓台を思わせる土累が全周ではないものの、住宅地の中に良好な状態で残っている。

No.356(栃木県NO.24) 中里城
場所 栃木県 足利市 福居町 
日時 2007年11月26日 12:57:56

中里城土塁
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下野国下県城

11月26日、この日は代休(?)を取り、久々に単車で出かけた。が、実は前日エンジンをかけようとしたらバッテリーがへたっていてエンジンがかからない。仕方なくバイク屋で充電する羽目になったのだが、3週間ほど乗っていなかっただけでへたるのが早すぎる。もうじきバッテリーも交換かなぁ。

まずは下県城。
実は、県の地は苗字の地らしい。というのも、何処の寺かは知らんが、そこの寺の過去帳に記載してあることが事実であれば、少なくとも鎌倉時代からこの県の地に拠っていたことになる。そう思うと意味深な城でもあるのだが、自分で裏を取った話ではないので、今のところは単なるお話程度。
真相の探求は老後の楽しみにとっておこう。

No.355(栃木県NO.23) 下県城
場所 栃木県 足利市 県町 
日時 2007年11月26日 12:03:54

下県城
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2007年11月17日 (土)

筑前国福岡城

博多に出張(?)したのだが、時間が若干できたので折角の機会だから寄ってみた。さすがに47万3千石の大大名の居城にふさわしく広大な城域で、駆け足状態であわただしく城内を徘徊し、結局時間切れで十分堪能することができなかった。
また機会があったら、今度はゆっくりと散策しよう。

No.354(福岡県NO.2) 福岡城
場所 福岡県 福岡市 中央区 城内
日時 2007年11月2日 14:21:08(大天守台石垣) 14:38:34(南丸北隅櫓・多聞櫓)

福岡城大天守台石垣と南丸北隅櫓・多聞櫓
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2007年10月27日 (土)

信濃国志賀城

この日の最後は志賀城となる。岩村田城を離れやや遅い昼飯とり、単車にガソリンを入れて志賀城を目指したものの、途中道に迷い志賀城の麓にある雲興寺についた時点で既に14時30分を回っていた。その上登城口がわからず、一時はもう帰ろうかと思ったほど。30分ほどあたりを徘徊してやっと登城口が見つかった。
遺構がよく残っており、山城の醍醐味が味わえる。ただ、落城の凄惨な記憶が残っている城でもある。

No.353(長野県NO.32) 志賀城
場所 長野県 佐久市 志賀
日時 2007年10月21日 15:34:34

志賀城主郭
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信濃国岩村田城

続いて岩村田城。この城は幕末に整備しようとしたものの、結局未完成で廃藩置県を迎え、現在は城域に藤城神社や岩村田小学校が構えているために、土累の一部がかろうじて残っているにすぎない。

No.352(長野県NO.31) 岩村田城
場所 長野県 佐久市 岩村田
日時 2007年10月21日 13:27:14

岩村田城
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信濃国大井城

中山道岩村田宿の界隈に大井城と岩村田城があると[新版 中山道69次を歩く]に記述があったので訪ねてみた。

まずは大井城であるが、城址は公園として整備されているので、遺構が全くわからない。ただ、その立地が典型的な中世城郭であるので、そこからかつてここに城があったことが偲ばれるのみである。
城らしき遺構が見あたらないので、湯川から城址を撮ってみた。

No.351(長野県NO.30) 大井城
場所 長野県 佐久市 岩村田
日時 2007年10月21日 13:00:22

大井城遠望
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攻城日誌を開始

山城を中心に城址巡りもしている。
歴史考証に基づいて整備されているものから土累の一部がかろうじて残されているものまで様々であり、バブル期の乱開発で完全に消滅していた城もあった。遺構は残っているものの、登城路が廃絶してしまって崖をよじ登らざるを得なかった城や、途中で道に迷いやはり崖を登っている最中に落ちてみたり、単なる史跡巡りとは異なる趣があり、これはこれで楽しいものだ。
こちらは2007年の9月末で350城を攻略したが、全部写真を撮っているわけではないし、トマソンのようにサイトで整理してもいないのだが、きりもいいので351城目からここで記録していくことにした。
なお、各城についての説明は、他のサイトに詳細な説明があるのでここでは特にしないので御容赦を。

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