せんぞさがし

2009年7月16日 (木)

小宮新兵衛師吉

実家にある系図のコピーの冒頭にある 3人の次に小宮新兵衛師吉が記載されている。
小宮新兵衛師吉は縣氏と小宮氏を繋ぐうえで非常に重要な人物なのであるが、系図には以下のような記載がある。

縣村罷有此節浪人立     小宮新兵衛師吉
折々江府江茂罷出候得共
何方江茂相勤不申候
名字此節改号小宮

この系図をまとめた人は生真面目というか小心者というか、こんな注釈あえて書く必要なかったのに。
人間、嘘をつくとその嘘が露見することを恐れていらぬ説明が多くなり多弁になるという。この注釈はそのような心理が働いているように感じられる。

それはさておき、小宮新兵衛師吉は系図に記載されている他の人物の活動時期から推察して、慶長~元和年間(1596~1624)頃の人物と考えられる。したがって、この時期に一時江戸に出ていたとはいえ、結局は縣郷に戻ってきたにも関わらず名字を縣から小宮に変えた理由が釈然としない。また、関東幕注文には縣左衛門の家紋を輪違と記載しているが、小宮氏の家紋は九曜星である。名字以上に家紋を変えた理由が分からない。

ここで、この系図の前半に記載されている人物と浄徳寺の[古文書]に記載されている 2人の氏名を時系列に並べてみると以下のようになる。

縣大和守泰
縣次郎左衛門

縣左衛門太郎
縣喜太郎
縣彦八郎

小宮新兵衛

小宮甚左衛門
小宮小右衛門

[鎌倉時代]の 2人と小宮新兵衛師吉を含む江戸時代の 3人の通字は[吉]であり、戦国時代末期の 3人と小宮新兵衛師吉の通字は[師]となっている。縣大和守泰吉と縣次郎左衛門吉長は江戸時代以降に創作された人物であることを踏まえると、江戸時代以降の通字[吉]と戦国時代末期の通字[師]は明らかに異なり、小宮新兵衛師吉のみが双方の通字で名が構成されている。

こうなると、小宮新兵衛師吉は小宮氏と縣氏を結びつけるために創作された人物ではないかと疑いたくなる(猜疑心が強いので)。実は、小宮新兵衛師吉を伝承上の人物のカテゴリに入れたのは、こうした可能性が否定できないからである。
ちなみに、実在する別系統の系図を架空の人物により無理やりつなぎ合わせることは江戸時代に行われた一般的手法であるという。

もっとも、戦国末期から幕藩体制の確立に至る激動の中で、一時流浪の身となった在地の武士である縣新兵衛が縣郷の有力農民であった小宮氏の養子となり、縣氏の通字である[師]と小宮氏の通字である[吉]を合わせて[師吉]を名乗ったとも考えることができる。実際、この時期には大名級の人物ですら浪人になった程で、支配基盤を失った武士が有力農民の養子となる事例がないわけではない。しかし、確たる証拠もなく可能性のみで解釈すると何でもありになってしまうので、縣氏や小宮新兵衛の正確な足取りがつかめない以上、この時代に一般的に起こりえたことを前提に解釈するしかない。

つまり、縣下野守の一件以来、縣氏との関係が途切れた縣郷で次第に力を蓄え江戸時代には名主にまで成長した小宮氏が、その地位の根拠として縣郷を名字の地とする武士である縣氏の末裔であると江戸時代以降自称するようになり、系図を偽造したということ。仮冒というやつである。

これだけ否定的な解釈をしながらなんだが、歴史的な解釈を試みようとしても結局は

わからない

ということがわかっただけで、伝承そのものが否定されたわけではない。思いこみと憶測のみで[歴史]を語るような幼稚なまねさえしなければ、伝承を信じていていいと思う。
伝承は必要があったからこそ語り継がれてきたのだから。

栃木県史 資料編を中心に吾妻鏡、鎌倉遺文等の一次史料を点検すれば縣氏と小宮氏を繋ぐ何かが見つかると思いきや、結局は何も見つからずに一般論で解釈するという身も蓋もない結果になってしまった。
確かに、一次史料から縣氏と小宮氏を繋ぐ根拠を見出すことはできなかったが、縣氏と小宮氏の関係を否定する史料もない。要は史料が決定的に不足しているだけのことなのであるが。それでも、縣左衛門のその後をなんとか確認することができれば、もっと事実に即した解釈ができるような気がする。そのためには夥しい資料を片っ端から読み込むことが不可欠になるが、これこそ老後の楽しみかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月15日 (水)

縣次郎左衛門吉長

浄徳寺が伝える古文書 3通のうち、残りの 2通は縣大和守泰吉の息子である縣次郎左衛門吉長に関するものである。
内容は父親であり浄徳寺を建立した縣大和守泰吉を讃えるとともに、世代交代に伴い浄徳寺における縣氏の特権的地位を[家臣]と共に確認したものとなっている。
この 2通の古文書のうち、[寺議式定]の内容に関しては明治時代前期に小宮(縣)家当主と[家臣]の子孫との間で再度確認されているのであるが、この確認の際に作成された文書と古文書 3通の計 4通は同じ時期(明治時代前期)に作成された可能性すらある。

幕藩体制の下、名主として支配機構の末端に組み込まれそれなりの権威を保持していたであろう小宮氏は、幕藩体制の終焉と近代化という激変のなかで縣郷内で新たな地位を確立する必要に迫られたであろうことは容易に想像がつく。その際に小宮氏が選択した手段は時代の変化に即した新たな経済関係を構築する方向ではなく、在地武士であった縣氏の末裔であることを示す系図と浄徳寺に残る伝承を拠り所とする伝統的権威の再確認であったと考えられる。

この伝統的権威を再確認するための根拠とされたのが浄徳寺の古文書であるが、鎌倉時代後期の記事であるにも関わらず文体が江戸時代のものであることから、この古文書は再確認の根拠として新たに作成された可能性が極めて高いと考えられる。
ここで件の[可能性]とやらを持ち出せば、鎌倉時代後期に作成された文書を江戸時代以降に写した際に[現代語訳]したのではないか、という理屈が言えなくもないが、文書を移す際には写し間違えが生じる可能性が避けられないにせよ、原本のまま写すのが一般的であり、あえて[現代語訳]したのであると主張するのであればその根拠を明確にして例外的事例であることを証明しなければならない。
浄徳寺の古文書に関しては、前述のように創作する理由を容易に推察することができることもあり、やはり伝統的権威の根拠として新たに作成されたと考えるのが適切である。

したがって、父親の縣大和守泰吉と同様に、縣次郎左衛門吉長も江戸時代以降、場合によっては明治時代前期に創作された人物であると結論せざるを得ないことになる。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年7月13日 (月)

縣大和守泰吉

下野国縣郷と関係があると思われる歴史上の人物で主な者に関する検討はできたかと思う。
これからは伝承中の人物を検証していくことになるが、一般的に、全ての伝承が全くのデタラメとは限らないし、歴史的事実を含む伝承も少なくない。中には完全にデタラメな伝承もあるが、それはそれでこのようなデタラメが何故発生したのか、その背景を探ればそれなりの真実が浮かび上がってくる。
伝承が歴史的事実に基づいているか否かは、考古学的な資料や文献史料と突き合わせて吟味しなければ判断することができない。にも関わらず伝承に基づく単なる思い込みや可能性という名の拡大解釈に過ぎない類の戯言をもっともらしく語る輩の多いことか。断わっておくが、伝承そのものを戯言と言っているわけではない。自己に都合のいいように伝承を曲解して捏造された[歴史]こそが戯言である。

伝承を吟味した結果、不本意な結果になることの方が多いかと思うが、ここでは敢えて小宮氏の伝承を吟味して、その歴史を明らかにしたいと思う。

始めに、縣大和守泰吉に関して検証する。

伝承では、小宮氏は藤原姓であり、その祖先は鎌倉時代後期の縣大和守泰吉とされている。縣大和守は浄徳寺(足利市県町)を建立するために居館である上縣城(立地的にも構造的にも[館]であり[城]とするには抵抗があるが)に隣接する屋敷地の一部を提供し、その開基となっている。浄徳寺にはこの時期の古文書が 3通残されているが、縣大和守に関する文書は以下のものである。

    證 書
一 当寺之儀者貴殿屋舖ヲ凡ニ町歩余致分地為境内鎌倉末号金清山浄徳寺泰吉建立依之当山開基君臣ノ内六名信州ニ住居スルヲ被呼寄普請世話方仕出来ニ付一同左ニ連印其証依而如件
  金清山浄徳寺
     住職 円海
 弘安二卯年 臣 鈴木新八郎
  三月廿日 臣 横田平之丞
       臣 中嶋源之進
       臣 堀越太左エ門
       臣 新井隼人
       臣 広田長左エ門
 縣大和守泰吉殿

この文体は江戸時代のものであるとのこと。
したがって、この古文書は江戸時代以降に作成された偽文書とするしかない。

建長寺史(末寺編)には永仁年間(1293~1299)に浄徳寺開山に関与した人物として縣小次郎藤原某が記載されていることから、当初から縣氏と緊密な関係にあったと推察することができる。しかし、現時点では信頼のおける一次史料で縣大和守の存在を確認することができない。もちろん、縣大和守の信濃国における所領も確認することができない。

したがって、縣大和守泰吉は浄徳寺に伝わる縣小次郎藤原某の伝承を基にして、何らかの意図で江戸時代以降に創作された人物であると結論せざるを得ないことになる。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年7月12日 (日)

縣左京亮入道道忻

縣左京亮入道道忻は、[平凡社 日本歴史地名体系 11 埼玉県の地名]の西大沼村に関する説明文中に出てくる。[平凡社 日本歴史地名体系 11 埼玉県の地名]の記述に沿ってまとめてみると以下のようになる。

文明9(1477)年5月26日の縣道忻書状(鑁阿寺文書)によれば、道忻は縣式部丞の病気平癒祈願のため[大沼郷之内橋本給分]を下野鑁阿寺に寄進したと[三島同宿中]に報じている。
その後、応仁2(1468)年3月5日に清水三郎二郎が武蔵国旦那知行分を鳥居御坊に永代売渡しており、そのなかに[大ぬま一円]が含まれている([旦那在所注文案]熊野那智大社文書)。
戦国期には深谷上杉氏の支配下に置かれ、大沼郷一帯は家臣大沼弾正忠の所領となったとのこと。

鑁阿寺に所領を寄進していることから、縣左京亮入道道忻は足利庄と関係のある人物であると推察できるが、何故、この時期突然武蔵国榛沢郡大沼郷に縣氏が現れるのか。

[栃木県史 通史編3・中世]によれば、

文正元(1466)年長尾景人が足利庄の代官として入部(足利市長林寺蔵[長尾系図])するに及んで、(葉苅郷は)長尾氏と被官関係にあった縣氏に給分として給与されたものと思われる。しかし、そのすべてが縣氏の給分であったわけではなく、長尾景長書状に、[葉苅之内小地寄進せしめ候]((栃木県史 史料編・)中世1・鑁阿寺文書289)とあるように、その一部は鑁阿寺十二支院の一つ金剛乗院に寄進されていた。

とのことなので、後の縣左京亮忠親に連なると思われる系統は遅くとも15世紀中頃には長尾氏の被官になっていたのだろう。この通史編の記述によると、縣氏の一系統は長尾氏の足利庄入部を契機に葉苅郷の一部を領有することになったようである。

したがって、通史編の記述と併せ、大沼郷は元々長尾氏の領地であり縣氏が長尾氏から給分されたものと解釈すれば、大沼郷における縣道忻の唐突とも取れる出現が理解できる。
もっとも、[平凡社 日本歴史地名体系 11 埼玉県の地名]に記述されている内容からは、縣氏の大沼郷支配が一時的なものであったらしいことが窺える。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月28日 (日)

縣左京亮忠親

この人物に関する文書は複数残っている。

具体的には、

縣文書(栃木県史 史料編・中世1)

 長尾當長充行状(天文24(1555)年6月30日)
 長尾當長書状(年不詳4月25日)
 長尾當長書状(年不詳1月2日)

永倉恵一氏所蔵文書(栃木県史 史料編・中世1)

 長尾當長官途状(年不詳1月2日)
 北條氏政書状(年不詳5月7日)

であるが(左京亮は後に因幡守になっている)、これだけ長尾當長との関係を示す文書が残っているにも関わらず、何故関東幕注文の長尾當長率いる足利衆に彼の記載がないのか理解できないでいたが、天文24年6月30日の長尾當長充行状を読んでいたらその理由が判ったような。

この充行状は

葉苅郷給分之内進置候下地、百姓等土貢至于難澁者、於自今以後、其方可爲儘候、爲其一筆、恐々謹言、

であり、長尾當長が左京亮に給分した葉苅郷における百姓(この場合、百姓=農民ではないと思うが)対策について指示を出したものとなっている。
ここではっきりしたのが、左京亮が長尾當長の家臣(関東幕注文における[被官もしくは家風])であること。家臣であり、恐らく小規模な所領しか持たない(つまり軍事的に弱小)領主だったが故に、関東幕注文には記載されなかったのではないか。

一方、関東幕注文では、縣左衛門、縣七郎、縣新次郎は被官や家風ではなく、それぞれ同心衆、同心、親類として記述されていることから、彼らが小規模な領主で軍事的に長尾當長や横瀬雅楽助に従属していたとしても、家臣ではなく独立した存在であったことが推察できる。

したがって、縣左衛門等の系統と左京亮の系統とは元々は同じだったのかもしれないが、永禄年間(1558~1570)には完全に別系統になっていると考えられるので、現時点では縣左衛門太郎師国の系統が小宮氏に繋がる、と仮定しておく。結果どうなるか分からないけど。

そうなれば、縣左衛門、縣七郎、縣新次郎の所領はどこか、ということになるが、現時点では全く不明。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月23日 (火)

縣下野守

縣下野守は、太平記に白旗一揆の旗頭として四條畷の戦いに登場する。
飯盛山城の記事では、太平記という[小説]を基に下野守贔屓で四条畷の戦いを解釈したので、[小説]上の縣下野守についてこれ以上触れまい。

ところで、[平凡社 日本歴史地名体系 9 栃木県の地名]の縣村に関する説明文中に、縣下野入道なる人物が出てくる。[平凡社 日本歴史地名体系 9 栃木県の地名]の記述に沿ってまとめてみると以下のようになる。

関東公方足利基氏御判御教書(神田孝平氏所蔵文書)によると、四條畷の戦い(貞和4(1348)年)から14年後の貞治元(1362)年12月25日、縣下野入道の所領であった下野国縣郷が本領であることを理由に高師有(高師秋の子)に還付されている。
また、年未詳10月8日の足利義詮書状(保阪潤治氏所蔵文書)によると、縣郷は建長寺宝珠庵に寄進されてしまい、これを不服とする縣下野入道は縣郷返付の訴訟を起こしている。
結局、応安元(1368)年8月3日には簗田御厨内の縣郷地頭職を有する宝珠庵と伊勢神宮権禰宜の間で神税の取り決めがなされていることから(皇大神宮権禰宜承房預状:宝珠庵文書)、縣下野入道の訴えは却下されたらしいとのこと。

この縣下野入道は縣下野守と同一人物と考えられなくもない。

ただし、園太暦によると、文和2(1353)年6月、楠木正儀、山名時氏等が京に侵攻した際、楠木勢と西山で戦い高師詮と共に自刃した人物に縣某がいる。また、静岡県掛川市の小笠神社の伝承には、高師直輩下の縣一族が紀州(何故紀州?)より落ち延びてきたとあることから、ここらへんをきちんと整理しないと縣下野守と縣下野入道とが同一人物であると言い切ることができない。

この事件で言えることは、縣小次郎藤原某の伝承と併せて、鎌倉時代後期から室町時代前期にかけて縣氏が縣郷の領主であったこと、その縣郷を14世紀の後半に縣氏が失ったということである。また、縣郷は室町末期には鑁阿寺領となっていること(佐野盛綱書状:鑁阿寺文書)、天正19(1591)年以前に北条氏直の所領になっていることを考えれば、縣氏はこの事件の段階で縣郷から去ったと考えてよさそうだ。
その後、縣氏の領地として確認できるのは今のところ文明9(1477)年の武蔵国大沼郷(深谷市)(縣道忻書状:鑁阿寺文書)と天文24(1555)年の下野国葉苅郷(足利市)(長尾當長充行状:県文書)のみ。もっとも、葉苅郷は縣郷のお隣だけど。
実際、現在の足利市県町には縣姓が存在しないらしい(聞いた話なので市役所で確認した訳ではない)ので、その遠因がこの事件だったのかもしれない。しかし、天正元(1573)年に佐野昌綱が富士源太に命じて縣城主縣下野守を夜討させている(栃木県史)が、この縣城が縣郷の下縣城である可能性もあることから、貞治元年からの約200年間に何が起こったことやら。

ところで、縣氏を高氏の家人の如く扱っている文書が見受けられるが、もしそうであれば室町幕府の法制上、家人が土地の領有を巡って主人を相手に訴訟を起こすことがあり得るのだろうか。これは室町幕府の訴訟手続とか調べてみないとなんとも言えないが。その結果、室町幕府内における縣氏と高氏の関係がはっきりするだろうけど。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年6月20日 (土)

縣左衛門太郎師国

時系列に従うと今回は縣下野守(室町時代前期)になるが、小笠神社の伝承も含めてこの時代の出来事を調べきれていないので、いきなり永禄年間(1558~1570)の縣左衛門太郎師国に関して整理してみる。

実家にある系図のコピーは永禄年間から始まっていて、冒頭にある 3人を抜粋すると以下のようになる。

永禄六年五月日 光源院殿御代当参
仕候日記于今所持仕候
      縣左衛無太郎師国
先祖之御感状之写于今所持之
      縣 喜太郎師里

      縣 彦八郎師重

光源院は室町幕府将軍足利義輝の戒名(光源院融山道圓)であることから、足利義輝との関係云々は現時点では全く分からないのでスルーするにせよ、縣左衛無(門?)太郎師国は足利義輝と同時代の人物であったことが推察される。別途、関東幕注文の下野国足利衆に長尾但馬守の同心衆として縣左衛門の名が記載されているが、この人物は縣左衛無(門?)太郎師国と同一人物であると考えられることから、永禄年間に縣左衛無(門?)太郎師国が実在したと言い切っても大丈夫だろう。

この系図には線が引かれていないので、左衛無(門?)太郎師国と喜太郎師里は親子と考えられるものの、喜太郎師里と彦八郎師重の関係が兄弟なのか親子なのか分からない。

ところで、関東幕注文には縣左衛門の他にも長尾但馬守の同心として縣七郎、横瀬雅楽助の上野国新田衆に雅楽助親類として縣新次郎が記載されているが、彼らの家紋は縣左衛門と縣七郎が輪違、縣新次郎が裾濃に三つ輪違となっている。したがって、縣左衛門と縣七郎は同じ、もしくは極めて近い系統、縣新次郎は縣左衛門・縣七郎とやや離れた系統と考えられるが、例の系図と併せてみると、

縣左衛門太郎師国  輪違

となる。

輪違は高氏の家紋であり、[師]はやはり高氏の通字である。室町時代前期からの縣氏と高氏の緊密な関係は、永禄年間まで続いていたと考えても良いのか悪いのか。そういえば、この時代の高氏はどうなってしまったのだろう?

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年6月11日 (木)

縣左近將監と縣佐藤四郎

縣左近將監と縣佐藤四郎は、承久の乱(承久3(1221)年)の宇治川合戦に登場する。

吾妻鏡(寛永版本)承久三年六月十八日の記事に

六月十四日、宇治合戰、討敵人々。

として

縣左近將監 二人

また、同じく承久三年六月十八日の記事に

六月十四日、宇治橋合戰、越河懸時、御方人々死

として

縣佐藤四郎

の名が記述されている。

もっとも、吾妻鏡が鎌倉時代末期の編纂で原資料には偽文書や伝承が含まれていることから、その全てを鵜呑みにすることができないものの、この六月十八日の記事の内容は

是今度合戰之間、討官兵、又被疵、爲官兵、被討取者、彼是有數多、關判官代、後藤左衛門尉、金持兵衛尉等、尋究之、注其交名、送武州。仍爲被勲功賞、所遣也。

でることから、全くのデタラメではあるまい。

さて、縣左近將監と縣佐藤四郎の素性であるが、吾妻鏡の他の記事にはこの 2人はおろか縣氏に関する記事が全くないので見当もつかない。

ところで、建長寺史(末寺編)には、例の浄徳寺との関係で永仁年間(1293~1299)に縣小次郎藤原某という人物が出てくることから、少なくとも鎌倉時代後期には下野国縣郷に藤原姓を自称する武士である縣氏が存在したことが推察される(この伝承が[物語]の発端かな)。
また、懸小次郎次任との関係でいえば、藤原長兼の日記[三長記]の建久9(1198)年の記事に鎮守府軍曹県兼友という名が見える(Wikipedia)ことから、こちらの懸氏は下野国縣郷の縣氏とは全くの別系統であると考えるべきかと思う。

縣左近將監・縣佐藤四郎と縣小次郎藤原某、あるいは鎮守府軍曹県兼友との関係を示す史料は今のところ見当たらないので、両名の素性は分からないとしか言いようがない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月10日 (水)

懸小次郎次任

[物語]が[歴史]になる過程を直接垣間見る機会に恵まれた。
家族に伝わる祖先の[物語]を否定するつもりは全くない。しかし、[物語]の枠を超えて、後世の偽文書や単なる伝承を基に[歴史]が形成されるとなれば話が違う。ましてや自分の祖先の[物語]が[歴史]になってしまっているのであればなおさらだ。

そんな訳で、徐々にではあるが、文献資料や伝承を集めては検討しながら、本当の意味の祖先の歴史を探していきたいと思う。
事実誤認もあるかもしれないが、その際は御指摘いただければと思う。

手始めに、文献に登場する縣姓を持つ人物を吟味していくことにする。

まずは、懸小次郎次任。

奥州後三年記(群書類従 第二十 続群書類従完成会)に

縣小次郎次任といふものあり。当国に名を得たるつはものなり。

とあり(本来は[懸]だと思うのだが)、清原家衡を打ち取る戦功をあげている。

懸小次郎次任が下野国縣郷の領主であるとした場合、源義家が延久2(1070)年に下野守になっていることから、この時期に名簿を差し出して家人となり、後三年の役に際しては義家に従い陸奥に赴いたとも解釈することができるが、問題は奥州後三年記の次の下りである。

次任が郎等、家衡が首を鉾にさしてひざまづきて、縣殿の手づくりに候となんいひける。いみじかりけり。陸奥国にはてづからしたる事をば手作となんいふなり。

郎等が陸奥国の[方言]を使っている。懸小次郎次任が陸奥国出身、もしくは相当長期にわたり陸奥国で暮らしていなければ郎等が[方言]を使うようなことにはならない。したがって、懸小次郎次任は後三年の役の際に義家に従い初めて下野から陸奥に赴いたわけではない。
また、縣郷を本貫としながら陸奥国に別途領地を有していたという解釈は、この時代成立する余地はないと思われる。

結果、懸小次郎次任を下野国縣郷の縣氏の祖先とすることはできない。

| | コメント (4) | トラックバック (0)