小宮新兵衛師吉
実家にある系図のコピーの冒頭にある 3人の次に小宮新兵衛師吉が記載されている。
小宮新兵衛師吉は縣氏と小宮氏を繋ぐうえで非常に重要な人物なのであるが、系図には以下のような記載がある。
縣村罷有此節浪人立 小宮新兵衛師吉
折々江府江茂罷出候得共
何方江茂相勤不申候
名字此節改号小宮
この系図をまとめた人は生真面目というか小心者というか、こんな注釈あえて書く必要なかったのに。
人間、嘘をつくとその嘘が露見することを恐れていらぬ説明が多くなり多弁になるという。この注釈はそのような心理が働いているように感じられる。
それはさておき、小宮新兵衛師吉は系図に記載されている他の人物の活動時期から推察して、慶長~元和年間(1596~1624)頃の人物と考えられる。したがって、この時期に一時江戸に出ていたとはいえ、結局は縣郷に戻ってきたにも関わらず名字を縣から小宮に変えた理由が釈然としない。また、関東幕注文には縣左衛門の家紋を輪違と記載しているが、小宮氏の家紋は九曜星である。名字以上に家紋を変えた理由が分からない。
ここで、この系図の前半に記載されている人物と浄徳寺の[古文書]に記載されている 2人の氏名を時系列に並べてみると以下のようになる。
縣大和守泰吉
縣次郎左衛門吉長
縣左衛門太郎師国
縣喜太郎師里
縣彦八郎師重
小宮新兵衛師吉
小宮甚左衛門吉芳
小宮小右衛門吉久
[鎌倉時代]の 2人と小宮新兵衛師吉を含む江戸時代の 3人の通字は[吉]であり、戦国時代末期の 3人と小宮新兵衛師吉の通字は[師]となっている。縣大和守泰吉と縣次郎左衛門吉長は江戸時代以降に創作された人物であることを踏まえると、江戸時代以降の通字[吉]と戦国時代末期の通字[師]は明らかに異なり、小宮新兵衛師吉のみが双方の通字で名が構成されている。
こうなると、小宮新兵衛師吉は小宮氏と縣氏を結びつけるために創作された人物ではないかと疑いたくなる(猜疑心が強いので)。実は、小宮新兵衛師吉を伝承上の人物のカテゴリに入れたのは、こうした可能性が否定できないからである。
ちなみに、実在する別系統の系図を架空の人物により無理やりつなぎ合わせることは江戸時代に行われた一般的手法であるという。
もっとも、戦国末期から幕藩体制の確立に至る激動の中で、一時流浪の身となった在地の武士である縣新兵衛が縣郷の有力農民であった小宮氏の養子となり、縣氏の通字である[師]と小宮氏の通字である[吉]を合わせて[師吉]を名乗ったとも考えることができる。実際、この時期には大名級の人物ですら浪人になった程で、支配基盤を失った武士が有力農民の養子となる事例がないわけではない。しかし、確たる証拠もなく可能性のみで解釈すると何でもありになってしまうので、縣氏や小宮新兵衛の正確な足取りがつかめない以上、この時代に一般的に起こりえたことを前提に解釈するしかない。
つまり、縣下野守の一件以来、縣氏との関係が途切れた縣郷で次第に力を蓄え江戸時代には名主にまで成長した小宮氏が、その地位の根拠として縣郷を名字の地とする武士である縣氏の末裔であると江戸時代以降自称するようになり、系図を偽造したということ。仮冒というやつである。
これだけ否定的な解釈をしながらなんだが、歴史的な解釈を試みようとしても結局は
わからない
ということがわかっただけで、伝承そのものが否定されたわけではない。思いこみと憶測のみで[歴史]を語るような幼稚なまねさえしなければ、伝承を信じていていいと思う。
伝承は必要があったからこそ語り継がれてきたのだから。
栃木県史 資料編を中心に吾妻鏡、鎌倉遺文等の一次史料を点検すれば縣氏と小宮氏を繋ぐ何かが見つかると思いきや、結局は何も見つからずに一般論で解釈するという身も蓋もない結果になってしまった。
確かに、一次史料から縣氏と小宮氏を繋ぐ根拠を見出すことはできなかったが、縣氏と小宮氏の関係を否定する史料もない。要は史料が決定的に不足しているだけのことなのであるが。それでも、縣左衛門のその後をなんとか確認することができれば、もっと事実に即した解釈ができるような気がする。そのためには夥しい資料を片っ端から読み込むことが不可欠になるが、これこそ老後の楽しみかもしれない。
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