« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »

2009年7月

2009年7月30日 (木)

伊那市高所ドア(2)

今回採集に一番手こずったのがこれ。
電車での距離感覚と単車での距離感覚がそもそも違うし、線路に沿って道が続いているわけでもない。なかなか見つからず最後にはおおよその見当を付けて線路に入り込むという危険極まりない行為に出たがローカル線で助かった。

No.479(長野県NO.40) 伊那市高所ドア(2)
場所 長野県 伊那市 御園
日時 2009年7月20日 15:28
09072007

| | コメント (0) | トラックバック (1)

伊那市原爆タイプ(5)

[伊那市原爆タイプ(4)]を採集して単車に跨りエンジンをかけようとすると何やら気配を感じた。何気に振り向くとここにも原爆タイプがある。
実際には視野に入っているものの明確に意識できていないだけなのかもしれないが、このような[気配]を感じることが多い。それだけ無意識に周りを物色しているのかもしれない。しかし、トマソンを感じたところでそれこそ何の役にもたたないこと間違いなし。

No.478(長野県NO.39) 伊那市原爆タイプ(5)
場所 長野県 伊那市 荒井
日時 2009年7月20日 15:06
09072006

| | コメント (0) | トラックバック (0)

伊那市原爆タイプ(4)

JR伊那市駅のホームで電車を待っていた時、オレンジ色のド派手な建物が視界に入り、何だろうねと眺めたら壁面に建物の痕跡が残っている。またひとつ発見した。

No.477(長野県NO.38) 伊那市原爆タイプ(4)
場所 長野県 伊那市 荒井
日時 2009年7月20日 15:02
09072005

| | コメント (0) | トラックバック (0)

伊那市原爆タイプ(3)

時間が余ると近所を徘徊するのが悪い癖でもあるのだが、その結果見つけたブツがこれ。見つけたのが夜間ということもあり、再訪した時は道を一筋間違えてしまい、再発見するまでいささか苦労した。

No.476(長野県NO.37) 伊那市原爆タイプ(3)
場所 長野県 伊那市 荒井
日時 2009年7月20日 14:57
09072004

| | コメント (0) | トラックバック (0)

伊那市原爆タイプ(2)

JR伊奈北駅から[ローメン発祥の地]に行く途中にあったブツ。これが伊那市での発見第 1号。
実は、[ローメン発祥の地]は JR伊那市駅から歩いた方が若干近い。そうはいっても間違えたからこそ見つけたということもあり、それはそれで良いかと。

No.475(長野県NO.36) 伊那市原爆タイプ(2)
場所 長野県 伊那市 坂下
日時 2009年7月20日 14:43
09072003

| | コメント (0) | トラックバック (0)

伊那市原爆タイプ(1)

撮影順が発見順の逆になったが、これが[伊那市高所ドア(1)]の直前に見つけたブツ。

No.474(長野県NO.35) 伊那市原爆タイプ(1)
場所 長野県 伊那市 山寺
日時 2009年7月20日 14:32
09072002

| | コメント (0) | トラックバック (0)

伊那市高所ドア(1)

電車が来るまで時間があったので、宿泊したホテルの界隈を散策していた時に最初に見つけたのが[伊那市原爆タイプ(1)]。ここにもあるんだ、と遠目に見ながら交差点を左折しようとした時に何かを感じる。振り向いてみると高所ドアがあった。

No.473(長野県NO.34) 伊那市高所ドア(1)
場所 長野県 伊那市 山寺
2009‎年‎7‎月‎20‎日 14:25
09072001

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月26日 (日)

CHATEAU CAP DE FAUGERES [2001]

2009年7月25日(土)

仕事で使っているノートPCのキーボードが壊れ"n"を入力することができなくなった。仕方がないのでIMEパッドで[なにぬねのん]を入力していたが、意識してみると"n"は意外と使用頻度が高く、これなら乱暴に使えば壊れるわけだわい。
さすがに[なにぬねのん]をIMEパッドで入力していると仕事に影響するので、私的PCのキーボードで代用しようとしたらコネクタが合わない。そんじゃキーボードを買いませう、と吉祥寺に出かけたついでに久々にワインショップを覗いたら店頭にあったのがこれ。

実は CHATEAU CAP DE FAUGERES は 2000年以降良い印象がない。90年代後半の出来に比べ品質がかなり落ちているような悪しき印象がある。ブドウの出来栄えによるのだが。
しかし、これ安いし、2001年はメルローの出来は良かったはずだし、と湧き上がる疑念を抑えて買ってみた。

で、数日後の土曜日、仕事が終わりふにゃと考えていたら、飲むのなら今日しかないことが判明。今日を逃すと早くて 8月8日になってしまう。これはもったいないとそそくさと準備を整え飲み始めたのだが・・・・・

疑念は吹っ飛んだ。かなり良い出来でこれまでの悪しき印象はなんだったのだろう。以前にもあったが、体調が悪いとワインも不味く感じることだし、もっぱら飲む側の問題だったのかもしれない。

このワイン、ワゴンセールの如く山積みされていたからもう少し買い溜めしておこう。

CHATEAU CAP DE FAUGERES [2001]

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月20日 (月)

トマソンツアー:伊那編

去年の 8月から今年の 5月までの間、仕事で伊那地方を何度か訪れたのだが、やはり人が生活を営んでいる以上、ここにもトマソンが公然かつひっそりと生息している。伊那市内だけでも 6件発見していたのだが、見つける時に限ってカメラを持っていなかったこともあり、全く収集できないでいた。
ここ数日体調を崩していたが、昨日ようやくほぼ元に戻ったので、3連休に何もしないのは精神衛生上好ましくないとばかりに今日は伊那まで出かけて発見したトマソンを全部採集しよう。

ホントなら伊那ICで下りれば最短なのであるが、天気も良いし多少遠くまで走ったところで高速料金 1,000円だしと結局松川ICまで足を延ばした結果、1時間遅れで伊那に到着。

まずは、何回か宿泊したJR伊那北駅の真前にあるホテルの界隈に生息する高所ドア原爆タイプを採集。次はここから[ローメン発祥の地]に行く途中の飲屋街に生息する原爆タイプを採集。続いて JR伊那市駅の近くにあるホテルに宿泊した夜に発見した原爆タイプと翌朝 JR伊那市駅のホームで電車を待っていた時に遠目に見つけた原爆タイプを採集。ここで、ふと振り返ってみると未発見の原爆タイプが構えている。これも採集。お次は伊那市内から電車で北上する際に車窓越しに見つけた高所ドア、がなかなか見つからない。目星をつけた個所を何回か行ったり来たりしたのだが埒が明かないので、最後の手段としておおよそここだろうと思われる地点で線路に入り込んだらすぐ近くにあったので採集して今日の作業は終了。ローカル線は本数が少なく線路に柵もないからこういう時には助かる。

結局、新規発見の原爆タイプを加え 7件採集。
帰りは小仏峠トンネルを起点に 30kmの渋滞・・・・・
疲れた。

本日の走行距離 519.1km

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月16日 (木)

小宮新兵衛師吉

実家にある系図のコピーの冒頭にある 3人の次に小宮新兵衛師吉が記載されている。
小宮新兵衛師吉は縣氏と小宮氏を繋ぐうえで非常に重要な人物なのであるが、系図には以下のような記載がある。

縣村罷有此節浪人立     小宮新兵衛師吉
折々江府江茂罷出候得共
何方江茂相勤不申候
名字此節改号小宮

この系図をまとめた人は生真面目というか小心者というか、こんな注釈あえて書く必要なかったのに。
人間、嘘をつくとその嘘が露見することを恐れていらぬ説明が多くなり多弁になるという。この注釈はそのような心理が働いているように感じられる。

それはさておき、小宮新兵衛師吉は系図に記載されている他の人物の活動時期から推察して、慶長~元和年間(1596~1624)頃の人物と考えられる。したがって、この時期に一時江戸に出ていたとはいえ、結局は縣郷に戻ってきたにも関わらず名字を縣から小宮に変えた理由が釈然としない。また、関東幕注文には縣左衛門の家紋を輪違と記載しているが、小宮氏の家紋は九曜星である。名字以上に家紋を変えた理由が分からない。

ここで、この系図の前半に記載されている人物と浄徳寺の[古文書]に記載されている 2人の氏名を時系列に並べてみると以下のようになる。

縣大和守泰
縣次郎左衛門

縣左衛門太郎
縣喜太郎
縣彦八郎

小宮新兵衛

小宮甚左衛門
小宮小右衛門

[鎌倉時代]の 2人と小宮新兵衛師吉を含む江戸時代の 3人の通字は[吉]であり、戦国時代末期の 3人と小宮新兵衛師吉の通字は[師]となっている。縣大和守泰吉と縣次郎左衛門吉長は江戸時代以降に創作された人物であることを踏まえると、江戸時代以降の通字[吉]と戦国時代末期の通字[師]は明らかに異なり、小宮新兵衛師吉のみが双方の通字で名が構成されている。

こうなると、小宮新兵衛師吉は小宮氏と縣氏を結びつけるために創作された人物ではないかと疑いたくなる(猜疑心が強いので)。実は、小宮新兵衛師吉を伝承上の人物のカテゴリに入れたのは、こうした可能性が否定できないからである。
ちなみに、実在する別系統の系図を架空の人物により無理やりつなぎ合わせることは江戸時代に行われた一般的手法であるという。

もっとも、戦国末期から幕藩体制の確立に至る激動の中で、一時流浪の身となった在地の武士である縣新兵衛が縣郷の有力農民であった小宮氏の養子となり、縣氏の通字である[師]と小宮氏の通字である[吉]を合わせて[師吉]を名乗ったとも考えることができる。実際、この時期には大名級の人物ですら浪人になった程で、支配基盤を失った武士が有力農民の養子となる事例がないわけではない。しかし、確たる証拠もなく可能性のみで解釈すると何でもありになってしまうので、縣氏や小宮新兵衛の正確な足取りがつかめない以上、この時代に一般的に起こりえたことを前提に解釈するしかない。

つまり、縣下野守の一件以来、縣氏との関係が途切れた縣郷で次第に力を蓄え江戸時代には名主にまで成長した小宮氏が、その地位の根拠として縣郷を名字の地とする武士である縣氏の末裔であると江戸時代以降自称するようになり、系図を偽造したということ。仮冒というやつである。

これだけ否定的な解釈をしながらなんだが、歴史的な解釈を試みようとしても結局は

わからない

ということがわかっただけで、伝承そのものが否定されたわけではない。思いこみと憶測のみで[歴史]を語るような幼稚なまねさえしなければ、伝承を信じていていいと思う。
伝承は必要があったからこそ語り継がれてきたのだから。

栃木県史 資料編を中心に吾妻鏡、鎌倉遺文等の一次史料を点検すれば縣氏と小宮氏を繋ぐ何かが見つかると思いきや、結局は何も見つからずに一般論で解釈するという身も蓋もない結果になってしまった。
確かに、一次史料から縣氏と小宮氏を繋ぐ根拠を見出すことはできなかったが、縣氏と小宮氏の関係を否定する史料もない。要は史料が決定的に不足しているだけのことなのであるが。それでも、縣左衛門のその後をなんとか確認することができれば、もっと事実に即した解釈ができるような気がする。そのためには夥しい資料を片っ端から読み込むことが不可欠になるが、これこそ老後の楽しみかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月15日 (水)

縣次郎左衛門吉長

浄徳寺が伝える古文書 3通のうち、残りの 2通は縣大和守泰吉の息子である縣次郎左衛門吉長に関するものである。
内容は父親であり浄徳寺を建立した縣大和守泰吉を讃えるとともに、世代交代に伴い浄徳寺における縣氏の特権的地位を[家臣]と共に確認したものとなっている。
この 2通の古文書のうち、[寺議式定]の内容に関しては明治時代前期に小宮(縣)家当主と[家臣]の子孫との間で再度確認されているのであるが、この確認の際に作成された文書と古文書 3通の計 4通は同じ時期(明治時代前期)に作成された可能性すらある。

幕藩体制の下、名主として支配機構の末端に組み込まれそれなりの権威を保持していたであろう小宮氏は、幕藩体制の終焉と近代化という激変のなかで縣郷内で新たな地位を確立する必要に迫られたであろうことは容易に想像がつく。その際に小宮氏が選択した手段は時代の変化に即した新たな経済関係を構築する方向ではなく、在地武士であった縣氏の末裔であることを示す系図と浄徳寺に残る伝承を拠り所とする伝統的権威の再確認であったと考えられる。

この伝統的権威を再確認するための根拠とされたのが浄徳寺の古文書であるが、鎌倉時代後期の記事であるにも関わらず文体が江戸時代のものであることから、この古文書は再確認の根拠として新たに作成された可能性が極めて高いと考えられる。
ここで件の[可能性]とやらを持ち出せば、鎌倉時代後期に作成された文書を江戸時代以降に写した際に[現代語訳]したのではないか、という理屈が言えなくもないが、文書を移す際には写し間違えが生じる可能性が避けられないにせよ、原本のまま写すのが一般的であり、あえて[現代語訳]したのであると主張するのであればその根拠を明確にして例外的事例であることを証明しなければならない。
浄徳寺の古文書に関しては、前述のように創作する理由を容易に推察することができることもあり、やはり伝統的権威の根拠として新たに作成されたと考えるのが適切である。

したがって、父親の縣大和守泰吉と同様に、縣次郎左衛門吉長も江戸時代以降、場合によっては明治時代前期に創作された人物であると結論せざるを得ないことになる。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年7月13日 (月)

縣大和守泰吉

下野国縣郷と関係があると思われる歴史上の人物で主な者に関する検討はできたかと思う。
これからは伝承中の人物を検証していくことになるが、一般的に、全ての伝承が全くのデタラメとは限らないし、歴史的事実を含む伝承も少なくない。中には完全にデタラメな伝承もあるが、それはそれでこのようなデタラメが何故発生したのか、その背景を探ればそれなりの真実が浮かび上がってくる。
伝承が歴史的事実に基づいているか否かは、考古学的な資料や文献史料と突き合わせて吟味しなければ判断することができない。にも関わらず伝承に基づく単なる思い込みや可能性という名の拡大解釈に過ぎない類の戯言をもっともらしく語る輩の多いことか。断わっておくが、伝承そのものを戯言と言っているわけではない。自己に都合のいいように伝承を曲解して捏造された[歴史]こそが戯言である。

伝承を吟味した結果、不本意な結果になることの方が多いかと思うが、ここでは敢えて小宮氏の伝承を吟味して、その歴史を明らかにしたいと思う。

始めに、縣大和守泰吉に関して検証する。

伝承では、小宮氏は藤原姓であり、その祖先は鎌倉時代後期の縣大和守泰吉とされている。縣大和守は浄徳寺(足利市県町)を建立するために居館である上縣城(立地的にも構造的にも[館]であり[城]とするには抵抗があるが)に隣接する屋敷地の一部を提供し、その開基となっている。浄徳寺にはこの時期の古文書が 3通残されているが、縣大和守に関する文書は以下のものである。

    證 書
一 当寺之儀者貴殿屋舖ヲ凡ニ町歩余致分地為境内鎌倉末号金清山浄徳寺泰吉建立依之当山開基君臣ノ内六名信州ニ住居スルヲ被呼寄普請世話方仕出来ニ付一同左ニ連印其証依而如件
  金清山浄徳寺
     住職 円海
 弘安二卯年 臣 鈴木新八郎
  三月廿日 臣 横田平之丞
       臣 中嶋源之進
       臣 堀越太左エ門
       臣 新井隼人
       臣 広田長左エ門
 縣大和守泰吉殿

この文体は江戸時代のものであるとのこと。
したがって、この古文書は江戸時代以降に作成された偽文書とするしかない。

建長寺史(末寺編)には永仁年間(1293~1299)に浄徳寺開山に関与した人物として縣小次郎藤原某が記載されていることから、当初から縣氏と緊密な関係にあったと推察することができる。しかし、現時点では信頼のおける一次史料で縣大和守の存在を確認することができない。もちろん、縣大和守の信濃国における所領も確認することができない。

したがって、縣大和守泰吉は浄徳寺に伝わる縣小次郎藤原某の伝承を基にして、何らかの意図で江戸時代以降に創作された人物であると結論せざるを得ないことになる。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年7月12日 (日)

縣左京亮入道道忻

縣左京亮入道道忻は、[平凡社 日本歴史地名体系 11 埼玉県の地名]の西大沼村に関する説明文中に出てくる。[平凡社 日本歴史地名体系 11 埼玉県の地名]の記述に沿ってまとめてみると以下のようになる。

文明9(1477)年5月26日の縣道忻書状(鑁阿寺文書)によれば、道忻は縣式部丞の病気平癒祈願のため[大沼郷之内橋本給分]を下野鑁阿寺に寄進したと[三島同宿中]に報じている。
その後、応仁2(1468)年3月5日に清水三郎二郎が武蔵国旦那知行分を鳥居御坊に永代売渡しており、そのなかに[大ぬま一円]が含まれている([旦那在所注文案]熊野那智大社文書)。
戦国期には深谷上杉氏の支配下に置かれ、大沼郷一帯は家臣大沼弾正忠の所領となったとのこと。

鑁阿寺に所領を寄進していることから、縣左京亮入道道忻は足利庄と関係のある人物であると推察できるが、何故、この時期突然武蔵国榛沢郡大沼郷に縣氏が現れるのか。

[栃木県史 通史編3・中世]によれば、

文正元(1466)年長尾景人が足利庄の代官として入部(足利市長林寺蔵[長尾系図])するに及んで、(葉苅郷は)長尾氏と被官関係にあった縣氏に給分として給与されたものと思われる。しかし、そのすべてが縣氏の給分であったわけではなく、長尾景長書状に、[葉苅之内小地寄進せしめ候]((栃木県史 史料編・)中世1・鑁阿寺文書289)とあるように、その一部は鑁阿寺十二支院の一つ金剛乗院に寄進されていた。

とのことなので、後の縣左京亮忠親に連なると思われる系統は遅くとも15世紀中頃には長尾氏の被官になっていたのだろう。この通史編の記述によると、縣氏の一系統は長尾氏の足利庄入部を契機に葉苅郷の一部を領有することになったようである。

したがって、通史編の記述と併せ、大沼郷は元々長尾氏の領地であり縣氏が長尾氏から給分されたものと解釈すれば、大沼郷における縣道忻の唐突とも取れる出現が理解できる。
もっとも、[平凡社 日本歴史地名体系 11 埼玉県の地名]に記述されている内容からは、縣氏の大沼郷支配が一時的なものであったらしいことが窺える。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月11日 (土)

RENATO CORINO BARBERA D'ALBA [2006]

2009年7月11日(土)

特許出願の事前準備に想定外の時間を費やし仕事のペースが乱れていたが、今日ようやく通常ペースに戻すことができた(汗)。
久々に DVD を観ながらワインを飲もう。

これ、数日前に購入したものだが、、最近イタリアワインに決定的にシフトしている。イタリアワインはフランスワインのように妙な蘊蓄がいらないところがいい。このワインは以前購入したバローロのような深遠さはないものの、それなりに楽しめものになっている。

で、SHOW-YA の[大復活祭 ~20thAnniversary~]をみ観ながら飲んだのですが、何回観てもいいもんです。ギター始めたのも SHOW-YA の影響だしね。ただ、残念なのはこの DVD にはお気に入りの[戒厳令の街-CRY FOR THE FREEDOM-]が収録されていないこと。

そもそもロックは抵抗のためにあると信じている。その意味では Neil Young が還暦を迎えてなお[Living With War]であからさまにブッシュ政権を批判していたが、これこそロックの魂そのものかと思う。
小手先のテクニックではなく、巨悪に対する抵抗としてのロック、それは生き方そのものになるけど、いつまでもロックしていたいものだ。

Hey hey, my my
Rock and roll can never die

and

Keep on rockin'In the free world 

RENATO CORINO BARBERA D'ALBA [2006]
Renato_corino_barbera_dalba_2006

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »