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2009年6月10日 (水)

懸小次郎次任

[物語]が[歴史]になる過程を直接垣間見る機会に恵まれた。
家族に伝わる祖先の[物語]を否定するつもりは全くない。しかし、[物語]の枠を超えて、後世の偽文書や単なる伝承を基に[歴史]が形成されるとなれば話が違う。ましてや自分の祖先の[物語]が[歴史]になってしまっているのであればなおさらだ。

そんな訳で、徐々にではあるが、文献資料や伝承を集めては検討しながら、本当の意味の祖先の歴史を探していきたいと思う。
事実誤認もあるかもしれないが、その際は御指摘いただければと思う。

手始めに、文献に登場する縣姓を持つ人物を吟味していくことにする。

まずは、懸小次郎次任。

奥州後三年記(群書類従 第二十 続群書類従完成会)に

縣小次郎次任といふものあり。当国に名を得たるつはものなり。

とあり(本来は[懸]だと思うのだが)、清原家衡を打ち取る戦功をあげている。

懸小次郎次任が下野国縣郷の領主であるとした場合、源義家が延久2(1070)年に下野守になっていることから、この時期に名簿を差し出して家人となり、後三年の役に際しては義家に従い陸奥に赴いたとも解釈することができるが、問題は奥州後三年記の次の下りである。

次任が郎等、家衡が首を鉾にさしてひざまづきて、縣殿の手づくりに候となんいひける。いみじかりけり。陸奥国にはてづからしたる事をば手作となんいふなり。

郎等が陸奥国の[方言]を使っている。懸小次郎次任が陸奥国出身、もしくは相当長期にわたり陸奥国で暮らしていなければ郎等が[方言]を使うようなことにはならない。したがって、懸小次郎次任は後三年の役の際に義家に従い初めて下野から陸奥に赴いたわけではない。
また、縣郷を本貫としながら陸奥国に別途領地を有していたという解釈は、この時代成立する余地はないと思われる。

結果、懸小次郎次任を下野国縣郷の縣氏の祖先とすることはできない。

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コメント

こんばんは。コメントのお返事をいただきましてありがとうございます。私も縣姓から次任に行き当たり、いろいろ読んでみたりはしています。後三年関係の「歴史小説」だったりすると、江刺の住人、清衡の郎党と書かれていたりするものもありますね。(チカさんからの口伝えと合う?)
偽文書のことなどは、私は全くわかっておらず、「足利浪漫紀行」の
「義家の家臣としてこの地にとどまったと伝えられ」という文を、そのまんま信じていたのですが…。縣さんの本家には中世の文書など所蔵されているそうで、どんなことが書いてあるのか単純に興味がありますが…。
小笠神社、これから見てみますね。

投稿: 泰の孫娘 | 2009年6月11日 (木) 20時32分

泰の孫娘さま

こんばんは。

縣さんの本家にある文書とは[縣文書]と思われますが、これは栃木県史・史料編に載っていと聞いています。
写しは見たことがあるのですが、内容は長尾當長が縣左京亮(後に因幡守)に充てたもの(複数)で、天文年間(1532~1555)に縣左京亮という葉苅郷(足利市葉苅町)を支配する長尾當長配下の武士がいたということが分かりますが、系譜的にはそれ以上のことは分かりません。
このあたりは同時期の資料として関東幕注文もありますので、これも参照しながら考えたいと思います。

投稿: 高島 | 2009年6月11日 (木) 22時23分

栃木県史などに出てくる縣家は我が家です。
縣小次郎次任は京都から義家に随行してきたので 東北暮らしが長いはずはありません。部下(郎党)は現地採用、もしくは文章を纏めた人がが東北弁で書いた可能性が考えられます。
縣小次郎次任は義家の命により八幡宮神職 葉苅郷管理の地頭職などを賜り足利に残りました
下県城址 下県城址 縣氏舘などの史跡は今も残っています。
小領主であるため 上に誰がいるか(長尾、後北条、、)で、記録の残り方も大分異なってきます。

投稿: 縣 | 2009年7月 4日 (土) 16時33分

訂正
下県城址 下県城址 縣氏舘

下県城址 上県城址 縣氏舘
です
失礼

投稿: 縣 | 2009年7月 4日 (土) 16時37分

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