縣下野守
縣下野守は、太平記に白旗一揆の旗頭として四條畷の戦いに登場する。
飯盛山城の記事では、太平記という[小説]を基に下野守贔屓で四条畷の戦いを解釈したので、[小説]上の縣下野守についてこれ以上触れまい。
ところで、[平凡社 日本歴史地名体系 9 栃木県の地名]の縣村に関する説明文中に、縣下野入道なる人物が出てくる。[平凡社 日本歴史地名体系 9 栃木県の地名]の記述に沿ってまとめてみると以下のようになる。
関東公方足利基氏御判御教書(神田孝平氏所蔵文書)によると、四條畷の戦い(貞和4(1348)年)から14年後の貞治元(1362)年12月25日、縣下野入道の所領であった下野国縣郷が本領であることを理由に高師有(高師秋の子)に還付されている。
また、年未詳10月8日の足利義詮書状(保阪潤治氏所蔵文書)によると、縣郷は建長寺宝珠庵に寄進されてしまい、これを不服とする縣下野入道は縣郷返付の訴訟を起こしている。
結局、応安元(1368)年8月3日には簗田御厨内の縣郷地頭職を有する宝珠庵と伊勢神宮権禰宜の間で神税の取り決めがなされていることから(皇大神宮権禰宜承房預状:宝珠庵文書)、縣下野入道の訴えは却下されたらしいとのこと。
この縣下野入道は縣下野守と同一人物と考えられなくもない。
ただし、園太暦によると、文和2(1353)年6月、楠木正儀、山名時氏等が京に侵攻した際、楠木勢と西山で戦い高師詮と共に自刃した人物に縣某がいる。また、静岡県掛川市の小笠神社の伝承には、高師直輩下の縣一族が紀州(何故紀州?)より落ち延びてきたとあることから、ここらへんをきちんと整理しないと縣下野守と縣下野入道とが同一人物であると言い切ることができない。
この事件で言えることは、縣小次郎藤原某の伝承と併せて、鎌倉時代後期から室町時代前期にかけて縣氏が縣郷の領主であったこと、その縣郷を14世紀の後半に縣氏が失ったということである。また、縣郷は室町末期には鑁阿寺領となっていること(佐野盛綱書状:鑁阿寺文書)、天正19(1591)年以前に北条氏直の所領になっていることを考えれば、縣氏はこの事件の段階で縣郷から去ったと考えてよさそうだ。
その後、縣氏の領地として確認できるのは今のところ文明9(1477)年の武蔵国大沼郷(深谷市)(縣道忻書状:鑁阿寺文書)と天文24(1555)年の下野国葉苅郷(足利市)(長尾當長充行状:県文書)のみ。もっとも、葉苅郷は縣郷のお隣だけど。
実際、現在の足利市県町には縣姓が存在しないらしい(聞いた話なので市役所で確認した訳ではない)ので、その遠因がこの事件だったのかもしれない。しかし、天正元(1573)年に佐野昌綱が富士源太に命じて縣城主縣下野守を夜討させている(栃木県史)が、この縣城が縣郷の下縣城である可能性もあることから、貞治元年からの約200年間に何が起こったことやら。
ところで、縣氏を高氏の家人の如く扱っている文書が見受けられるが、もしそうであれば室町幕府の法制上、家人が土地の領有を巡って主人を相手に訴訟を起こすことがあり得るのだろうか。これは室町幕府の訴訟手続とか調べてみないとなんとも言えないが。その結果、室町幕府内における縣氏と高氏の関係がはっきりするだろうけど。
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コメント
しかし、天正元(1573)年に佐野昌綱が富士源太に命じて縣城主縣下野守を夜討させている(栃木県史)が、この縣城が縣郷の下縣城である可能性もあることから
下縣城(政務)、上縣城(居館)を多く使っていたが、これから 八幡宮至近の縣氏舘が居館の中心となる。戦国時代、戦勝祈願など神職の役割の比重が増加していく。そこで葉苅からの通勤では間に合わなくなったためである。
投稿: 縣 | 2009年7月 4日 (土) 16時52分
縣さま
コメントありがとうございます。
念のために申し添えますが、当方としては小宮氏と縣氏との関係を知りたいがゆえに、学術的価値の高い一次史料をできる限り用いて検証しています。
その結果、縣左衛門と縣左京亮とが永禄年間には別系統になっていることが確認できた以上、左京亮の系統に関してとやかく言うつもりはありません。
また、史料のありかそのものを全て把握できているわけでもないので、御指摘いただいた
・縣小次郎次任が京都から義家に随行してきたこと
・郎党が現地採用もしくは記述者が陸奥言葉で記述したらしいこと
・義家の命により八幡宮神職及び葉苅郷管理の地頭職などを賜ったこと
を示す学術的な検証を経た一次史料の所在を御教示願えれば幸いです。
上記のことは現在まで調べた史料には記載がありませんでした。後学のためにも見ておきたいのでよろしくお願いします。
投稿: 高島 | 2009年7月 6日 (月) 19時27分